神奈川運輸業健康保険組合保健センター 中原克彦
昭和46年卒50回生です。平成20年6月にけいゆう病院を退職し、以後現在の所に勤務して、主に定期健康診断を行っています。
横浜三四会の役員の役割を全く果たしていない私にもコラム執筆の順番が回ってきました。
他の役員の方々のように医療の第一線で活動しているわけではないので何を書いたらよいのか困ってしまい、他の役員の方々のコラムを読んでいたら、西区の鈴木 彰先生のコラム(2016年2月)が目に留まりました。
鈴木先生と私は昭和49年から1年間、警友病院(現けいゆう病院)で内科の卒後研修をともに行い、遊んだ親友です。
鈴木先生はなんでも取っておく(捨てられない)方のようで各種の名簿を今でもお持ちのようです。
平成8年の名簿には松丸忍先生、山岡三郎先生、アフメット・アルテンバイ先生と不肖、私が診察をしたことがある懐かしい名前が載っているとのことです。
鈴木先生はコラムの最後に「昔の名簿を見るにつけ、記憶がはっきりしているうちに当時の記録や逸話、写真が残せたらと思います。」と結んでいます。
私もアミロイドβの沈着が大分進んできたようで記憶にあいまいな点があるかもしれませんが上の3先生の思い出を書いてみたいと思います。
松丸忍先生。(14回生 横浜三四会2代目会長) 先生は90歳近くになって汎血球減少でけいゆう病院通院するようになり何故か私が外来で拝見するようになりました。
輸血を考慮することもありましたが、そのたびに検査成績が改善し、「先生、貧血良くなっていますよ。
何かしたんですか。」と言うと「そういえば少し前にマグロを食べた。
あれが効いたかなあ。」その後もある時はマグロがウナギに、ある時はステーキに代わり(相当グルメだったようです)結局一度も輸血をしなかったと記憶しています。
先生は88歳の時にモロッコ旅行をしています。
ツアーの同行者に写真家の椎名ヒロシ氏がおり、この旅行時の写真を「モロッコ旅情」という写真集にして出版していますが、巻末で椎名氏は「(ツアーでは)松丸先生を家長としたファミリーが自然と形成され、楽しい旅が続けられた。
先生の行動・言動のひとつひとつに、人生の教示を受けることがあった。」と記載しています。
この写真集は先生の米寿記念として出版されています。
真に親分肌の先生でした。
アフメット・アルテンバイ先生。(25回生)ある朝テレビをつけたら、元町の銭湯に入っている先生が出てきてびっくりしたことがありました。
べらんめえ調、江戸っ子気質で日本人より日本人らしいところがある先生でしたが、外来に付き添いでいらっしゃる素敵な奥様(先生は”かあちゃん”と呼んでいました)には全く頭が上がりませんでした。
山岡三郎先生。(18回生) 私が内科の卒後研修で警友病院に出張する前に、研究室の大先輩に呼ばれこう言われました。
「今度君が出張する警友病院の内科部長は山岡先生といって、柔道の達人で腕っぷしの強い方である。
君は生意気だから殴られるかもしれない。くれぐれも注意しなさい。」おそるおそる挨拶に行きましたが、小柄で優しそうな先生で、実際、出張中も大変可愛がっていただき(相撲部屋の”かわいがり”ではありません)1度も殴られることなく2年間の出張を終えました。
先生は常々”immer denken,immer forshen”という句を口にされ、信条とされていました。ただ宴席での”bis Boden”は全く下戸の私にはいささか辛いこともありました。
後に私が警友病院に就職したとき先生はすでに開業されていましたが、その後お会いする機会も多く、先生の健康面での相談を受けることもあり、入院されたときは主治医となり、最後に先生の看取りも行い、更には告別式で先生の遺影の前で思い出を語ることにもなりました。
告別式の最後に先生のお嬢様がご挨拶をされて、その中で「父は勉強をみてくれて、”immer denken,immer forscen”と常々言っていました。」と言われたとき、先生は我々医師ばかりではなくお子様方にもこの句を使われ、先生の信条を教えていたことを知りました。先生は人情味に溢れた心優しき薩摩隼人でした。
3先輩方はいずれも主に昭和の時代に活躍した個性豊かな先生方でした。
まもなく元号は変わり新しい時代を迎えます。
横浜三四会からどんな個性豊かな先生が出てくるか楽しみです。